協働 公認会計士共同事務所

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帰任のご挨拶

 協働のホームページをご覧の皆様、こんにちは。本年8月に協働に帰任いたしました、田岡歩と申します。今回は自己紹介も兼ねて、皆様にご挨拶を申し上げたいと思います。

 

◆これまでの私

 

 出身は東京都日野市です。日野市と言ってもご存じない方も多いと思いますが、スタジオジブリの映画「耳をすませば」や、数年前に流行した「もしドラ」の舞台になった土地です。小学校・中学校は日野市、高校は八王子市、大学は国立市と、ずぅっとチャリ通、生粋の多摩っ子です。

 中学・高校時代は吹奏楽部に所属し、勉強もそこそこにチューバという大きなラッパを吹いていました。大学ではオーケストラでトロンボーンを担当していました。

 

 小学生のころから銀行員になることが夢でしたが、大学時代に会計士を志しました。志しましたが、楽器ばかり吹いていましたので、在学中には当然合格しませんでした。大学を卒業すると今度は塾講師のアルバイトが楽しく、バイトばかりしておりました。1年ほど呑気にフリーターをやり、卒業後2年目の試験にも当然合格できませんでした(当時会計士の一次試験は毎年5月にのみ実施されました)。

 

 ふと気が付くと大学時代の同級生はみな社会人2年目を迎え、充実した日々を送っているようでした。さらには結婚するものも出はじめる始末、月8万円の給料から3万円のご祝儀を捻出した時、ようやくお尻に火が付きました。

 アルバイトのシフトを減らし、ひたすら家で勉強しました。1年間、友人からの遊びの誘いは全て断りました。勉強が理由でしたが、正直なところ会って惨めな思いをしたくなかったというのもありました。毎日12時に起きて(これを宅浪界では「いいとも起き」と言います)朝兼昼食をとり、13時から19時まで勉強。2時間休憩し、21時から夜の3時まで勉強して就寝、という生活を1年弱送りました。試験前の四十数日間は、家から一歩も外に出ませんでした。本当に厳しかったですが、今思えば勉強だけに集中することができる環境を整えてくれた両親に、ただ感謝です。

 2009年、ようやく会計士試験に合格しました。ただ折悪く、世間はリーマンショックによる景気低迷の真っただ中でした。大手の監査法人を回りましたが、内定は得られません。すっかりやさぐれていたところ、日野市のある弁護士の方に、協働を紹介していただきました。それが協働を知ったきっかけでした。

 事務所に赴き、坂根公認会計士に協働のあり方と仕事の内容についての説明を受けました。もともと私の父が都の社福法人に勤めていることもあり、福祉の世界に会計を活かせないか、ということは大学在学時より考えていたことでした。卒業論文も社会福祉がテーマでした。「協働で働きたい」という旨を坂根会計士に伝え、「非常勤なら」ということで、2010年1月より協働の一員となりました。

 その後、2年間の監査法人勤務を経て、2012年8月にまた協働に戻ってきました。

 

◆これからの私

 協働の仕事は、税務と会計を主軸とした幅広い知識が求められることはもちろんですが、それだけならばどこの会計事務所でも同じです。協働の一員たり得るには、その理念や歴史についても正しく修めていく必要があると考えています。それはつまり、なぜ皆様が協働に仕事を託してくださるのか、を考えることでもあります。

 協働という名前の由来は、本HPの「「協働」の紹介」にある通り、「関与先(クライアント)の多くが「非営利・協同」の組織またはそう成りたいと願う組織や人々であり、私たち協働は、そのような非営利・協同のクライアントの方々と協力共同して働き、事務所全員が協力共同して働く、このことを大切にしたい」というヴィジョンにあります。

 今はまだ、目前の仕事と勉強をこなすのに精いっぱいで、協働の理念や歴史を自らのものにする時間がなかなかとれませんが、今後の皆様との仕事や事務所内研修会等を通じ、ワークハードする中で、少しずつ自らのものにしていきたいと考えています。

 

 至らぬ点も多く、ご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、精一杯努めてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

2012年12月 田岡 歩

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