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ハンセン病問題に関する情報発信

 2017年12月28日付で、弊事務所が10月に実施したハンセン病に関する研修合宿のレポートが掲載された(事務所合宿 ハンセン病(栗生楽泉園))。学んだことについて考え、残し、伝え、広げていくことで、少しでもハンセン病問題完全解決への一助となりたく、谺雄二氏の「人権のふるさと」論の内容に触れながら私見を述べる。合宿のレポートと併せてお読みいただければ幸甚である。

1 ハンセン病の基礎知識

(1)ハンセン病について
・ハンセン病は、らい菌によって皮膚や末梢神経が侵される感染症である。
症状:皮ふに様々な病的変化が起こる。痛い、暑い、冷たいといった感覚が失われる。
   顔、手指、足が変形する。脱毛。失明。

・はじめに理解しなければいけないこと
 ハンセン病は遺伝病ではなく感染症であること。
 しかしとてもうつりにくい病気であること。
 早く見つけて適切な治療をおこなえば治る病気であること。(1943年、治療薬プロミン発見)
 →なお、現在の日本の衛生状況/生活環境を考えれば、らい菌に感染してもハンセン病になることはほとんどない。

(2)近代以前の日本のハンセン病政策概略
・奈良、平安時代には仏教者による患者の救済。鎌倉時代には日本最古の救らい施設が奈良県にできる。

・江戸時代「業をさらす」「業病」「天刑病」などと呼ばれる。家筋の病気であり、家の恥であるという認識。非人宿に暮らす者、「穢多」身分の配下におかれるもの、乞食になるもの。もっとも多かったのは、在宅のまま家族や共同体に扶養されるもの。

・「近代化」の進められる明治の中期以降、隔離が必要な伝染病であると考えられた。ハンセン病患者やその家族は激しい差別と迫害を受けるようになっていく。(草津湯ノ沢部落の発展と“絶対隔離収容”の栗生楽泉園への移転等)
 →明治絶対天皇制のもと、富国強兵そして軍事国家の歩みと一体となって、患者や人々の社会生活を踏みにじって進められてきたことを示している。

(3)明治以降の日本のハンセン病政策概略
・1909年、浮浪患者を療養所に収容することを定めた「癩予防ニ関スル件」施行。全国5か所に道府県連合立療養所(公立療養所)が設置される。
 →日本型「強制絶対終生絶滅収容政策」の展開。偏見や差別の一層の助長。1996年「らい予防法」廃止まで続く。
 →1916年には「癩予防ニ関スル件」一部改正。療養所の所長に「懲戒検束権」が与えられる。正式な裁判を経ずに、療養所の所長の判断で監禁所に収監されることとなる。

・1931年、「癩予防ニ関スル件」が全面的に改正、「癩予防法」制定。すべてのハンセン病患者を療養所に入所させることとなる。
 →1930年に初の国立療養所、長島愛生園(岡山)開設。その後公立療養所も国立に移管され、13の国立ハンセン病療養所が開設される。
 →「癩予防法」は、日本が15年に亘るアジア・太平洋戦争に突入する直前に成立し、15年間の戦争のなかで実施されていったことになる。長期化する戦争のなかで、ハンセン病対策も、心身ともに優秀な国民の創出を目指す優生政策の一環に位置付けられていく(「ハンセン病」の根絶ではなくハンセン病「患者」の絶滅を企図している、すなわち病気の治療・治癒ではなく、患者そのものの絶滅政策)。

・1953年「らい予防法」成立。その実態は「癩をひらがなにかえただけ」。癩予防法改正運動の願い届かず(むしろ隔離政策強化)。その背景に光田健輔らによる、強制収容の強化、断種の履行、罰則の強化の要求。さらには終戦後の人権尊重の視点の欠落。

・1950年代から1970年ころにかけて、国際的には「無差別の強制隔離政策は時代錯誤で廃止すべき」等の議論が進む。一方日本では1948年から1972年までに、ハンセン病を理由とする特別法廷が95件開かれている。

・1996年、らい予防法廃止。2001年、違憲国賠訴訟熊本地裁全面勝訴。「遅くとも1960年以降、すべてのハンセン病患者について隔離する必要はなくなっており、らい予防法の隔離規程は憲法違反が明白となっていた」。国の責任を認め、謝罪。2009年、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)」施行。2016年、最高裁は特別法廷が遅くとも1960年以降は「裁判所法」違反であったことを認め、ハンセン病「元患者」に謝罪。

2 現代にいたる課題と「人権のふるさと」論

(1)闘争の成果
 2001年の違憲国賠訴訟熊本地裁全面勝訴により立法府、行政府の謝罪を勝取り、またハンセン病訴訟原告団と政府・厚労省の間の確認事項として、a)謝罪・名誉回復、b)在園保障、c)社会復帰・社会生活支援、?真相究明が挙げられ、ハンセン病問題はその全面解決に向けた出発点に立った。それから15年経ってようやく、司法・最高裁がハンセン病患者の裁判所外での「特別法廷」開催の違法性を認め、謝罪に至ったのが2016年4月である。これらは患者や回復者、その家族、支援者、弁護団等の長年にわたる闘争の成果である。

(2)いまだ残る課題
 しかし、この謝罪によってハンセン病問題が終局的に解決したととらえることは誤りである。一つにはハンセン病の患者家族の損害賠償裁判があり、熊本で500人ほどの原告が提訴している。患者本人と同様に深刻な差別を受けた家族に対する責任も国に認めさせることが必要であろう。
 また、そもそもハンセン病に対する差別と偏見がなくなっていないことへの法的責任も問われている。
 国のハンセン病政策がハンセン病患者への偏見と差別を「作出助長」したことは2001年の判決で国も認めている事項であり、国の政策によって「作出助長」された偏見と差別によるあらゆる人権の侵害と剥奪こそがハンセン病問題の本質である。「かわいそう」「気の毒」といった同情的、恩恵的問題にとどまるものではなく、人権という最高位の権利にかかわる問題として法的解決が迫られる事柄である。
 この点、厚労省が作成して全中学生に配布しているハンセン病の学習テキスト「ハンセン病の向う側」に、国・厚労省のハンセン病問題のとらえ方が透けて見える。この小冊子においては、ハンセン病患者が「何時の時代も偏見や差別の対象にされてきた」ことが強調されており、こうした記載の裏には「国に責任はない、差別した国民に責任がある」という考え方が見え隠れするのである。政策や法律による人権侵害問題としてとらえる視点が弱く、さらには国民の側に人権侵害・剥奪の責任を転嫁する論調である(その他にも「ハンセン病の悲しい歴史」や「どうしてもっと優しくできなかったんだろう」といった表現がみられる)。

(3)「人権のふるさと」論
 この点、ハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会長を務める等、その生涯にわたって人権回復に尽力した谺雄二氏は、「人権のふるさと」論(栗生楽泉園入園者自治会機関誌「高原」第七三四号(2011年12月発行)に掲載された谺氏の論文)において、2009年に施行されたハンセン病問題基本法の完全実施を訴え、ハンセン病問題の全面解決の道として「療養所の社会化」を説いている。
 谺氏は本論文においてハンセン病問題基本法をたなざらしにしようとする国の姿勢を糾弾するとともに、「療養所に居ながらの社会復帰=社会的な絆による共生」による全面解決を訴えているのである。当初栗生楽泉園の「社会化」は、温泉浴場の一部をアトピー皮膚炎に苦しむ人たちの治療施設として役立てていくことを目指した。この目標は紆余曲折を経て現在は頓挫しているが、より発展的に「療養所の社会化」の理念を実現するための楽泉園の将来構想として「人権研修センター」としての位置づけを掲げている。谺氏はその論文の中で「私たちが最後の一人まで社会化したより良い環境で過ごすことができ、私たち全員が亡き後の納骨堂を無縁仏などと始末させず、各園それぞれの歴史的建造物、各種資料を広く展示し、国の責任において守らせ、また各園が所在したこの土地が『人権のふるさと』として社会的な学びの場にしておく必要がある」ことを指摘している。
 全国にある療養所の一部においては保育所や特別養護老人ホームが作られているものの、療養所を社会のさまざまな人が住む場所にすることはいまだに実現できていない。現在、在園者の平均年齢は85歳となっている。一刻も早く、ハンセン病の完全解決に向け、国の責任のもとに「療養所の社会化」を進め、人権とは何かを問い、人権を尊ぶ社会にとっての「人権のふるさと」として位置づけていく必要があるのである。

(4)まとめ(少し視野を広げて)
 現代の社会を顧みるに、いまなお国による社会的弱者に対する偏見と差別の「作出助長」が続いているのではないか。
 合宿でお話を伺った群馬・ハンセン病訴訟を支援し、ともに生きる会の会長である羽部氏の話のなかに、「生活保護を受給するためにプライバシーの侵害としか思えないことまでも役所に話さなければならない」というエピソードがあった。いわゆる「劣等処遇」の考え方を背景にした「弱者切り捨て」型の政治の暴走は、貧困と差別の拡大・深化や社会保障制度改悪にあらわれており、こうした政治思想のありようがわれわれ市民の日常的な思想にも少なからず影響を及ぼしているのではないか。
 物事の判断基準の「軸」を歴史から科学的に見出し、「権威」や「集団」の、誤った考え方に流されぬよう、思索・研鑽を積む必要を感じる次第である。

参考文献
「人権のふるさと」論 谺雄二
「ゆたかなくらし」より「ハンセン病政策と人権―現在・過去・未来」 井上英夫
「月刊経済」より「社会保障の原点を問う」 井上英夫
「栗生楽泉園ガイドブック」 栗生楽泉園入所者自治会
「ハンセン病 共生と隔離の歴史を学ぶ」 群馬大学

(田岡 歩)

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